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「はい。先方にも喜んで頂けました。はい。それで、今日は直帰していいですか。はい、詳しくまとめたものを明日提出しますので。はい、それでは失礼します。」
通話が切れたことを確認してから、携帯を耳から離す。腕が下がるのとため息が出るのとが同時で、それに気づいて更にため息が出る。
鼠色に濁った空から零れる大粒の水。予報を見てこなかった自分を嘆きつつも、雨宿りできる場所が身近にあり、腰をかけるベンチすらあることの幸運を秤にかける。水平だろうか。もともと雨が降らなければ必要のない幸運だとしても。
木製のベンチはところどころボロボロになっていて、スーツに木片が付着しそうだが背に腹はかえられない。ベンチにゆったりと背中を合わせ、天井を眺める。焦点は天井に集めながら、思考は現状へと落下させていく。
休日は人でごった返すが、今日は平日である。しかも、この降り方を見る限り予報ではかなりの高確率が発表されていたのだろう。鮮やかな色彩たちが左右に徘徊しているが、それもわずか。立ち止まることのないその流れは疲れたサラリーマンが形成しているのか、はたまた夕食の買い出しに来た主婦たちなのか。しかし、それもどうでもいいことではある。
雨粒が盛大にアスファルトで舗装された道を叩いている。周りの音がそれにかき消されることがありがたい。雑音に囚われずゆっくりと考えたかったから。
生きるということは何だろう、そう考えた時に、スーツを着た自分が行きついた答えは『偽ること』だった。周囲に蔓延る雑音に耳を傾けはするものの、それに囚われないようにするのがどれほど大変か。四方八方から向けられる視線に、どう満足をさせていくか。自分を抑えて抑えて抑えて、胃がきりきり痛むのも我慢して、夜中目を閉じる瞬間が一番幸せで、朝方目覚まし時計の音を聴く瞬間が一番不幸せだと思う人生。
他人に対して偽り、自分自身に対しても偽る。それに尽きる。
天井の金属が反射して映す自分の顔を見て、天井を見ることを止めた。真っ直ぐに見据えた世界に起きた変化は単純で、傘が見当たらなくなった代わりに艶やかな光沢を持った黒猫が鎮座していたことだけだ。綺麗な黒のマントにギラギラと輝く一対の獣の象徴。首元に何も付いていないということは野良猫だろうか。
手を差し出したのは無意識だった。そして、その手を叩かれたのは意識によるものだ。
馬鹿にするなと言わんがばかりに引っ掻かれた右手が少し腫れる。そう、馬鹿なことをしたものだと思いながらも、あくまで猫を注視する。猫も私を睨みつける。猫の瞳に映る自分は黄色く歪んで見えた。歪んで。歪んで映るのは救いかも知れない。
二人分のスペースを有するベンチが、今一人の男と一匹の猫に占拠された。猫が爪を砥ぐせいで身を引き裂かれるベンチ。しかし何も訴えることはできない。きっと私たちが明け渡した数十年後に崩壊という形で鳴くのだろうなと思う。
泣き声が聴こえた。研ぎ澄まされた高音。ゆっくりと上方にカーブをしたグラフが頭に浮かぶ。確か、負の方向に下がる放物線だったかな。
猫が何を言っているのか、正確に把握したわけではなかったが、太腿に置いていた鞄を脇にずらすと満足そうに上がってきた。一歩目で足場を確かめるようにぐいぐい右手を押し付け、あとは寝やすそうな場所を探すだけ。両の太腿に挟まれた窪みで落ち着くと丸くなり、脚と尻尾の先に顔を乗せ満足そうだった。ちょうど背中が私の臍に来る格好。
優しく風が撫ぜるように意識しながら猫を撫でる。初めこそ耳がピクと二度三度動いたものの、特段不快ではないらしい。寝息を立てることがないので、本当に寝ているのかはわからない。ただ、幸せそうに見えるのは私の自惚れではないと感じた。
雨が止むことはなく、曇り空が晴れることもなかった。
一時間経っても好転しない空模様に内心気が滅入りそうにはなるが、どこかで安心していたのかもしれない。雨が止むことはない。曇り空が晴れることもない。どこか隔絶された空間にいるような落ち着いた感覚に浸れる。
黒猫が寝返り打った回数、8回。寝づらいのか、しばしば態勢を変えて気分を変えている。9回目の時、彼は徐に頭を上げ、腹を舐め始めた。足場が安定しないので少しよろけ気味に忙しく刺々した舌を上下に滑らせている。
ふと彼が熱心に一か所だけ舐めているのが気になった。下腹部のあたり、黒い稲穂が刈り取られてしまっている。なんだ、これは。何故、ここだけ?
猫がストレスで禿げた、なんて面白おかしく話していた人がいた記憶が蘇る。あれが真実なのかどうかはわからないが、今目の前にある十円禿げは何が原因なのだろう。何にストレスを溜めているのか。
話せればいいのに。
雨が強くなっていく。
話せれば解決することがいくらあったのだろう。しかし、それとは反対に話したところで解決しなかっただろうことも山ほどあっただろう。そして私が選んだのは腹に収めること。解決したところで、自分にどれほどの利があるというのだろう。一時の安らぎを得られるかもしれない。しかし、次は。その次も安らぎは得られるのか。
そんなことはない。
だから私は安心するのだろう。この、『野良』猫に。孤独に一匹として生きていく存在に。私という存在が許される、その拠り所であるこの猫。
「ナツメー。そんなところにいたのね。」
傘を差した女の子が道の向い側から声を掛けてくる。ナツメ。自分の周りにそれらしい人はいない。しかし彼女は私の方に向かって手を振っている。太ももに鋭い痛みが走り、黒猫が駆け出すのは一瞬だった。
車の通りのない道をがむしゃらに走り抜け、女の子の足元に駆け寄る姿を眺めて、私は、また天井を見上げた。
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